![]() なぜ留学?その2 ウォーリックへ来て MBA 進学予定者と話をする機会が多く、また授業のプレゼンテーションでも「なぜ MBA?」について扱ったため、「なぜ留学?」について再度考えさせられる事がこのところ多かった。 「これまでの仕事で知識が偏っているので。」「企業経営者となるため。」「現在までの仕事に限界を感じたので(マーケやファイナンスなどを学ぶ)。」 こんなような話を聞く機会が多かったが、いわゆる「普通の」動機であり、「ふーん」と思っただけで特に感銘を受けることはなかった。 (もちろんこれらの動機をダメだとか言っているわけでは決してない) それはどれも「なぜ MBA?」の回答にはなってるのだろうが、これらの知識的側面は通信制 MBA・自国の学校・本で身につけられるものであり、「なぜ留学?」の回答ではないからだ。 そんな中、最近感じ始めているのが、「留学により、考え事をするのに最適な環境を得ている。」という事実である。 これまでのように日本で会社勤めをし、日常的生活(変な言葉だが)を送っているとどうしてもそのポジションからしか物事を捉えられず、抜本的将来像の再構築はかなり難しいだろう、と想う。 異国で留学生という立場にたってまとまった時間を持つと、嫌でも日本という国・家族・友人・将来の生活・職業...などについて考えることになる。 これは「キャリアアップ⇒人生の充実」というこれまで依存していた概念が崩壊した私にとって (あくまで私の内部だけのこと)、本当にいい機会となっている。 と書くとどうにも現実逃避をして海外へ来ただけみたいだが、これはこちらに来て初めて気づいた事実であり、あくまでも副産物である。 しかしながら後から振り返ったとき、「留学をして良かった事」の1つに入るのは間違いない。 それぐらい留学生というこの立場を今は有難く想っている。 この立場を利用し、これからの12ヶ月間をとことん考え事に使っていこうと想う。
2004年9月12日 記
思考は言語に帰属する? 留学経験のある人達から「○○人の友達が。。。」といった話を聞くたびに、「本当にそんなに 簡単に外国人と友達になれるのだろうか?」と疑問に思っていた。 ここで言う「友達」とは、単にあいさつや軽い世間話をするだけの付き合いでなく、日本語で言う ところの「親友」という意味でのことである。 実際のところどうなのかというと、自分自身が異国へ来てたった2週間だが、「こいつとは長い 付き合いができそうだな。」と思えるような外国人の友達に数人出会えている。 (実際にどうなるかは別として。) それは1つに「共通の敵を持つ人間同士は仲良くなる。」という点もあるだろう。 つまり、イギリスという不便で物価の高いところで共同生活をしていると、イギリスや学校に対する不満が共通の敵の役割を果たしてくれるのだ。 しかしながらそれだけでは単なる顔見知りの域を出ず、短い付き合いに終わるだろう。 私はもう1つの点として「言語レベルの高くないもの同志のため、思考レベルも同程度に似通ってきて協調しやすいのではないだろうか?」と想っている。 もちろん個々の性格が合う、というのが一番の要因ではあるし、他にも同じ学生という身分だから気が合いやすい、というのも大きな要因だろう。 しかしそれだけでは私が18歳のトルコ人と長く付き合えるとまでは思わないだろう。 なので「思考は言語に帰属する。」という言葉は事実だと感じている。 しかしながらそんな小難しい理屈はどうでもいいことで、「友達」と呼べる外国人と出会えた事を ここは単純に喜びたいと想う。
2004年7月29日 記
なぜ留学? 言葉ではわかっていたものの、実際に渡英してみて改めていかに日本は便利で快適な国かを 痛感している。 営業時間の短いお店・平然といい加減な回答をするスーパーの店員・お釣りや両替の用意されないバス・高い物価 etc など渡英したばかりということもあってどちらかというとイギリスの悪い点のほうが目に付く。 そこで思うのはなぜ私は日本の快適な生活を抜け出し、キャリアを中断し、そして借金まで 背負って留学するのか?という自分の考えの見つめなおしである。 もちろん大学院に提出した志望動機の小論文にはもっともらしいことを書いたし、それは決して その場しのぎの嘘でもなく、私の本心である。 しかしこの情報網の整備された現代で、本当にわざわざイギリスに来る必要はあったのか? 知識だけなら日本でも十分に身につけられるのでは? おぼろげながらも、「それでも留学は有意義だ。」というのが現時点での判断だ。 「思い出はプライスレス。」などと言うとまやかしのようだが、日常に起こる非常に些細な日本では体験できない出来事の積み重ねが、後々振り返ったときに私の人生を豊かなものにしてくれる だろうとの期待は間違いではなかったと現在実感している。 杉山愛がテニスとは「自分磨きである。」と定義しているように、現在の私にとっての自分磨きがたまたま留学なのであろう。 自分磨きは留学しないとできないかというと決してそんなことはなく、日本で会社勤めをしていた際には会社勤めを通じて生活の糧を得ると同時に自分磨きをできていたように想う。 つまり、人間をサイコロのような多面体だと仮定すると、私は現在1つの側面の自分磨きを中断 して他の側面を磨いているだけである。 まとまりのつかない話となったが、それはやはり私の考えが整理されてないからだろう。 無理にこのテーマに関して自分の想いを整理しなければいけないわけでもないが、初心に帰る のは悪いことではないので、定期的にこのテーマには触れていこうと想う。
2004年7月25日 記
宗教の違いとは? 「Stolen Summer」(邦題「夏休みのレモネード」)という映画を観て、これまで漠然としていた想いがクリアになったので書いておこう。 私はこれまで神の存在は信じていたものの、特定の人だけを神として崇拝して他の存在(宗教)を認めない、という考えは持てなかった。 そのため無神論者と大して変わらないような状態だった。 それがこの映画では、特定の宗教の神は単なるシンボルであり、異なる宗教を信じている人たちは神の一部分を見ているだけに過ぎない、として他の宗教の信仰を認めるのである。 (この映画は決して宗教論をこねくりまわすようなものではなく、楽しめてなおかつ感動できる本当にお勧めできるいい映画です。) つまり、ある人は日本の沖縄だけを見て「日本は暖かい国である。」と判断し、またある人は北海道だけを見て「日本は雪のよく降る国である。」と判断しているだけに過ぎない、という状況に人々は陥っているだけなのだ、と解釈するのだ。 これを観て私は非常にすっきりした。 長年心に引っかかっていた「なぜ世界平和を願うはずの宗教が争いの当事者になるのか?」といった疑問が氷解したのだ。 もちろん現実はこんな単純なことではないだろう。 しかし、自分と異なる考えを持つ人の受け入れ方、という点では意義のある考え方だと想うのだ。 これから異なる文化的背景を持つ学生と話をすることでこの考えは変わるかもしれないが、 現時点での私の宗教観としてここに記しておこう。
2004年7月9日 記
歪んだ医療界 以前に父の入院に付き添った時に感じた想いを記してみたい。 父が入院した病院は大きな総合病院ではあるものの、近所では評判が良くないのだが、緊急ということでそちらに入院したのだ。 そこでのオペレーション(「手術」ではない)は想像以上のレベルの低さだった。 大きな総合病院ということで患者数が多く、医師は患者を右から左へ流す以上の事ができない。 なので看護士に明確かつ詳細な指示を出せない。 指示が曖昧なので看護士は「どの程度の患者の変化で医師に報告すべきか」が全くわからず、また患者数に比較して人員不足もあってルーチンワーク以上のことはできないしやりたくもない、という感じで医師に患者の様態の正確なフィードバックなど望むべくもない状態である。 そして医師は様態の変化をつかめないので「う〜ん、様子を見ましょう。」といったその場しのぎに終始するし、また様態変化が知識として蓄積しないので必然的にその場しのぎしかできないレベルから成長できない。 またそれは同時に看護士の判断レベルの成長も妨げているし、漠然とした仕事となるのでモチベーションも低くなり、それが患者に対する態度に表れてくる。 (看護士は極端に若いかベテランのどちらかであり、離職率が高く人員不足が解消せずにかつ雰囲気も悪い、と推測する。) 患者はそうした医師や看護士を見て「○○病院はダメだ。」と口にする、といったサイクルであるように私は感じた。 私がこれまで見てきたダメな会社・組織と比較してもここはかなり重症であった。 他国は知らないが、少なくとも日本の医療は不思議な世界である。 看護士は常に人員不足。 インターン医師の待遇は酷いと聞く。 経営難に陥っている病院も多いらしい。 そうかと思えば外車を何台も乗り回す開業医の存在。 私はここで特定の病院や医師・看護士を非難するつもりもなければ医療制度の歪んだ部分を指摘するわけでなない。 想うことはただ一つ、「日本の医療の世界は歪んでいる。」事を我々は認識すべきということだ。
2004年7月3日 記
当たり前のこと このサイトを見たということで、米系企業で同じグループで主に販路の開拓に取り組んだ同志の方からメールをいただいた。 (余談だが「志」という言葉には思い入れもあるのでいつかここでまとめたいと思っている。) その方は現在10名ほどの部下を抱えるプレイングマネージャーであり、その組織は全国で Top の成果を出すなどご活躍中である。 そしてその成功の要因としては 「組織全員が当たり前の事を当たり前の事として実践できている。」 ことにあるのではとご自身で分析されている。 「当たり前の事を当たり前の事として実践する」ためには「何が・どの程度までが当たり前なのか」の共通認識を持つ必要がある。 これは言葉にするのは簡単だが、現実にはこれができない組織が多いのではないだろうか? 似たような考え方の学生をかき集め、その新卒メンバーだけで運営を続けていくような大企業であれば教育・経験など組織のメンバーが共有するものが多いため、「何となく」上手くいっているケースもあるだろう。 しかし現実にはそんな組織は稀であるし、そんな組織から活力が生じるわけもない。 上司が当然と思っていることが、異なる性格・教育・経験を持つ部下にとっては当然ではない。 そこでその上司は「あいつはこんな当たり前のこともわかってない。」と判断する。 そうなるとコミュニケーションの不足が深刻化し、簡単なミスの発生・組織行動スピードの喪失・人間関係の摩擦につながり、結果として成果も出せない。 程度の差こそあれ、このような組織は非常に多く存在しているのではないかと思う。 こういった組織に陥らないよう、この方は組織での「約束事」を明文化し、共有したそうだ。 この「明文化すること」というのは非常に効果的なやり方だと私も考えるし、実際にこの「約束事」が寄与している部分が非常に大きいそうである。 私がこれまで多くの「マネージャー」の方々と仕事をしてきた経験に加え、長期間ではないが自分自身が「マネージャー」であった経験から少しずつ「組織の運営法則」のようなものが良くも悪くもわかってきたような気がしている。 そういった経験だけでなく、このように考えさせられる話をしてくれる方にも恵まれている。 このような私の「無形固定資産」は留学で学ぶことでどこまで大きくできるのだろうか?
2004年6月13日 記
企業風土の力 昨日テレビで OSK(大阪松竹少女歌劇団)を取り上げたドキュメント番組を観た。 簡単に言ってしまえば OSK とは宝塚歌劇団のようなものなのだが、近年集客力の衰えが目立ち、松竹グループ・さらには近鉄グループからもリストラされてしまったのだ。 そしてこの番組では劇団員が中心となって市民劇団として立ち直っていく姿を描いていた。 一般的な(私だけの?)ビジネス感覚で言えば、OSKの再生は極めて難しい、と判断されることだろう。 なぜなら出演するメンバーは以前までと同じ(それどころか離脱メンバーも多く、体制弱化である)であり、観客に提供するもの(歌劇の内容)は同じなのである。むしろ運営スタッフ・資本などの不足で提供するものの質的悪化は避けられない状況である。 仮に私がベンチャーキャピタリストだとすると、OSK から提出される事業計画書を承認して資本拠出には踏み切れないだろう。 (集客力のあるスターの引き抜きや新たな演目の取り組みなどを要求するかも?) それでも OSK は順調とは行かないまでも、少しずつ再生していくのである(少なくとも番組を見る限りでは)。 それはもちろん支援者達の力も寄与しているのだろうが、やはり大きいのは劇団員達自身の変化である。 これまでは黙って練習してさえいればステージが用意され、そして営業スタッフ達が販売したチケットを購入した観客達の前に立てばよかったのだが、営業・運営・出演とほとんど全ての部分を自分達で行うようになったことで何というかいい緊張感のようなものがステージにも現れるようになり、むしろ質が向上したようだったのである。 ここで私は「風土」「雰囲気」「空気」といったものの力の大きさを改めて認識させられた。 私は実体験や本(「なぜ会社は変われないのか」柴田昌治著 など)から得た知識から「企業風土」は企業の無形固定資産と言えるほど大きなものだとの考えを持ってはいたが、資本や新たな技術(商品・サービス)などの「企業風土」以外の力と共存して初めて企業の再生が実現するものだと認識していた。 しかしここで考えなおす必要があるようだ。 もしかすると「資本」「新たな技術革新」「運」そういったこれまで別物と考えていたものも、「企業風土」がもたらすものなのかもしれない。 その一方で、「金のある会社は自然といい雰囲気になるだろ。」という考えにもうなずけるものがあるため正解はよくわからないし、もしかすると一生わからない類の問題なのかもしれない。 それでもこの事は心に留めておき、目前に迫ったビジネススクールでの授業や議論、そしてその先の現実のビジネスにおいて正解を追及し、役立てていきたいと思う。
2004年5月31日 記
「恐怖感」の正体 以前勤務していた会社でお世話になった方から心に響くメッセージのあるメールをいただいたのでここに残しておこう。 (万が一著作権に触れてはいけないので漠然とした書き方で。) とある大学の研究の結果、以下のようなものがあったそうである。 「心配事のうち、80%は実現しない。」 そしてさらに16%は十分な事前準備により回避可能だそうである。 つまり、あれこれと心配をしたとしても、準備さえ怠らなければその心配事が現実のものとなるのは4%の確率程度だそうである。 もちろんこれは「のほほんとしておけ。」という意味ではなく、「恐怖感に縮こまってしまい、必要なリスクテイクをできなくなることを戒める。」ものであると私は受け止めている。 実際に私は渡英が現実のものとなり、不安がいろいろ出てきている。 しかし留学は誰に命じられたのでもない、自分で考えて自分で決めたことである。 現地でペースを掴めるまではこの言葉を噛み締め、今できること・しなければいけないこと、に集中して過ごしていこう。
2004年5月29日 記
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